鳥取市の「富桑をよくする会」準備会は8月25日、富桑地区公民会で「戦争体験を聞く懇談会」を開き、約40人が参加しました。
岸田和夫さん(89)がシベリア抑留、花原積さん(88)が海軍兵学校練習船「磐手(いわて)」乗船の経験について話しました。
岸田さんは、航空技術兵として満州に渡り、戦後、捕虜として3年間シベリアに強制抑留されました。満州では「残された特攻機5、6機を点検しただけで、それ以降は戦闘機に触ることはなく、毎日、塹壕を堀り」、8月15日、北朝鮮の新義州で終戦を迎えました。
関東軍の集結命令に従い、安東で武装解除され、奉天で「1041人の大隊」に編入されました。約1カ月かけて満州とソ連の国境の黒河(黒竜江)まで汽車で移送され、「10月1日、凍結した黒竜江を渡り」、ソ連領へ入りました。
移送の途中、汽車は給水のために、ため池のある停留所に止まりました。ため池には、日本人の女性や子どもの遺体が浮かんでいました。「軍人として敗戦の責任を感じながら手を合わせ」、ため池から水を汲み、沸かして飲食に使いました。
大隊は、バイカル湖の南、ガラドック地区バインゴール収容所まで行軍。「目的地まで7日間歩きつづけ、2日目で乾パンが切れ、零下40度の中で食料もなく死者が次々と出た」と語りました。
現地では、ダムの建設が行われ、伐採・石灰岩の砕岩・鉄道貨物への載積・農場労働など奴隷的労働が課せられました。
「1日のノルマが課せられ、3月頃まで食料輸送は途絶えがちで食事が不足し、栄養失調のため毎日のように死者が出る」状態で、自身も栄養失調のため、保護兵として4カ月間養生。農場に配属となり、野菜を盗み食いして健康を取り戻したといいます。
その後、転属されて「工場の清掃、発電所の石炭運搬、山中独立隊の石灰づくりに従事し、1947年9月11日、ウランデで帰国の途に」就きました。「山中独立隊では、米子出身の江原勝隊長(後の日本共産党県議)の世話になった」といいます。
参加者らは、「捕虜を強制労働させることは国際法違反ではないか」「民間人も捕虜になった」などロシア(ソ連)の行為を批判。また、「はだしのゲン」の閲覧規制は、戦争に向かう流れの中で出て来たのではないか、などの意見が出されました。