鳥取県で5月24日、「ヒバクシャ国際署名をすすめる鳥取県民の会」が発足しました。鳥取市で発足総会が開かれ、被爆者を含む約20人が参加し、活動を交流しました。
昨年、9月に県被爆協、県原水協、県生協連、新日本婦人の会の4団体で準備会がつくられ、団体に呼びかけ。県漁業協同組合、日本共産党、創価学会を含む11団体が加入し、その他、JA鳥取県中央会、民進党など6団体が協力の意思を表明しています。
県被爆者協議会の石川行弘事務局長石川氏は「核兵器は人類と共存できず、廃絶するしかないと世界の国々が考え始め、核兵器禁止条約が実現しようとしている。核保有国に法的規制をかけ、核兵器廃絶に向けて大きく踏み出すため、禁止条約の実現、2020年のNPT(核拡散防止条約)会議成功に向け、県民の中に署名を広げよう」と呼びかけました。
被爆者の浦田昌則氏(85)、後藤智惠子氏(89)、石川氏が被爆体験を語りました。
浦田氏は、呉の中学校から建物疎開に動員され、比治山の近くで被爆しました。家の下敷きになり友人3、4人と助けだされました。顔と手足に火傷を負い、夜は横になって寝られず、翌日は顔と手足の皮がむけて肉がむき出しになりました。包帯をしていた顔にウジが湧いたこと、白血球が半分になり、風邪をひくと治らず、怪我をすると血が止まらなかったこと、体力を取り戻すのに5年かかったことなどを語りました。
後藤氏は、米子病院(現鳥取大学病院)に救護班として広島市に入り入市被爆しました。被爆者の看護にあたり、火傷の患部にウジが湧き、団子状のウジを除去したことなど話しました。
石川氏は、4歳の誕生日に家の外で被爆しました。家の影に隠れていたために熱線は浴びなかったが、中学校のときに倦怠感で寝られず、食事がつらかった、約20年間、健康不安がつづいたと話しました。