【8月25日付】鳥取市が「非核平和ヒロシマ原爆展」 被爆体験を語り継いで

 鳥取市で開催された「非核平和ヒロシマ原爆展」で、10、11の両日に計3回、被爆者の梶本淑子さん(88)が被爆証言をしました。毎回、定員70人の席がほぼ埋まりました。


 14歳の梶本さんは、爆心地から2・3㌔離れた飛行機のプロペラの部品工場で女学生らと被爆しました。


 木造2階建ての工場の下敷きになった梶本さんは、命がけで友人と脱出。自身は右腕と右足に重傷を負いました。友人は片方の腕の肉をもがれてブラブラの状態で、ちぎった半袖シャツと鉢巻で応急手当をしました。
 近くの公園に重傷の友人たちを担架で何往復も運び、4日目に自宅に帰る途中に父に出会い号泣しました。


 8月中寝た切りで、高熱が続き、歯ぐきから大量の血が出ました。右腕の傷はウジを取っても化膿するばかりで治りませんでした。2カ月後、島根から医師が来て、消毒も麻酔もせずにピンセットで7片のガラスを取り出し、痛みに耐えて右腕を失わずにすんだと言いました。


 3日3晩、爆心近くを探して被爆した父親は、1年半後、血を吐いて1週間で亡くなりました。友人はガンで次々と亡くなり、自身も胃がんで胃の3分の2を摘出。孫やひ孫の血液の病気が心配だと話しました。


 当時、爆心地近くでは建物疎開が行われ、約8200人の中学生、女学生が動員されていたと言われます。建物にロープをかけて引き倒し、幅100メートルの道路をつくり、延焼を防ぐことが目的でした。(約6300人が即死か、数日の内に死亡。二十数年間で生存者の3割が亡くなったと言われている)。
 従兄の谷口勲さんも動員され、身内も分からないほど顔が火傷しました。父親が見つけて、家に連れ帰ったが、間もなく亡くなったと言いました。


 梶本さんは、広島では沢山の中学生が生きたくても生きられなかったとして、「命を大切にして下さい。優しい思いやりの心が平和の原点です。家族や友人を大切にしてください」とのべ、「被爆の実相を語り継いで下さい。私たちは、ヒロシマの原爆の何千倍の威力がある核兵器が1万4千発も存在する恐ろしい世界に住んでいます。原爆の問題は過去のことではなく、現在の問題です。戦争を知らない政治家は、『紛争解決は戦争で』と言います。人間は歴史を忘れると、同じ過ちを繰り返します。忘れないために継承してください」と訴えました。


 講演後、会場からの質問に梶本さんが答えました。


 まず、戦争に向かうときの日本の雰囲気について、どうだったかとの質問が出ました。


 梶本さんは、国全体が戦争を待望する熱気に包まれたとして、「戦争はいやだと口にする人は『非国民』、『国賊』と呼ばれ、食べ物の配給がもらえず、生活できなかった。子どもはいじめられ、家族が生きていくために『非国民』を家族から出してはいけなかった」と話し、二度と恐ろしい時代に戻してはいけないとのべました。


 次に、ロシア、北朝鮮、中国と核武装国に包囲され、日本政府に核兵器禁止条約に調印しろと言える状況ではない、との意見が出ました。


 梶本さんは「意見は否定しない。何でも言える社会であることが重要だ」としたうえで、「核兵器を持っている以上は使う。米国は核兵器を小型にして使う研究をしている。世界のどこでも再び被爆者を出さないことが被爆者の願いだ。そのためには世界中の核兵器を廃絶するしかない」と答えました。


 最後に、原爆がもたらしたむごさと無力さを感じるが、戦争を知らない世代として、何を継承すればいいのかと質問が出ました。


 梶本さんは、「そのことを感じてくれるのが一番。中には感じてくれない人もいる」とのべ、「その気持ちを周りの人たちに伝えて下さい。あなたのできること、語ること、書くこと、絵や音楽、演劇で。そして、政治家に行動を起こすよう働きかけてください」と訴えました。